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「世間」と「社会」との間をつなぐファミリービジネス・ファミリーセラピー

~「社会の公器」を目指すビジネス的側面と「世間」に生きるファミリーとのバランスを図るには?~

企業は「社会の公器」といわれます。では、「家族」はどうでしょうか?

ファミリービジネスには、「ビジネス(企業、会社)」の側面と、「ファミリー(家族)」の側面とがあります。世間学を創始した社会学者の阿部謹也氏は、日本の「家族」は最も近代化されていない分野で、「世間」の影響をダイレクトに受けている、と述べています。

では、企業や会社の側面はどうでしょうか?

建前では「社会の公器」ですが、本音では「世間体(せけんてい)を気にする私器」である場合が少なくありません。会社を「世間的私器」にしてしまっていることが、非ファミリービジネス、ファミリービジネスを問わず、企業の不祥事に連なっていることが、少なくないのではないでしょうか?

「世間」については、以前(2022年5月23日)にも、「ファミリーの支援:「世間」と「社会」~「世間」に乗っ取られてきた日本の家族~」コラムで書きました。世間は、曖昧模糊としていて、誰も、「これが世間だ」と明言できません。しかし、誰もが世間で生きていて、世間について肌感覚で知っています。たとえば、「世間をお騒がせした」といっても、「社会をお騒がせした」とは、言いません。そんな感覚を、日本人は、生活する中で身につけていきます。

私たちは、「自分が悪くない」と思っていても、「世間をお騒がせした」ことを、詫びます。が、「社会」の立場からすると、「あなたが悪くないのなら、詫びる必要はなく、悪くないことをハッキリとさせなさい」となるでしょう。欧米「社会」では、「自分が悪くないことを、法などの『社会』的手段を使って、明らかにします」。が、「明らかにする」こと自体が、日本では「世間」を騒がせることになるため、明らかにしようとすることを止めるか、明らかにしたなら世間に迷惑をかけたことを、詫びなければならない気持ちにさせられます。

夜の繁華街では、しばしば次のようなシーンを目にします。宴会や飲み会あがりの社員や得意先の人どうしが、道いっぱいに広がり、お互いに腰を低くして、あいさつし合っています。「今日はありがとうございました」「お疲れさま!」「お気をつけてお帰りください」「次はどこへ行く?」などと、大声で盛り上がっていることも、少なくありません。

その道は「社会」空間(=公道)のはずですが、そこでやりとりしている人たちにとって、そこは「世間」空間で、自分たちしかいません。だから、自分たちの「世間」に属さない人が、その通りを進めなくなっていても、一向にかまわないし、気になりません。

「すみません。通りたいのですけど」と言われてようやく、ハッとしたり、ときには「うるせーなー・・・」とばかりに、嫌な顔をされたりしかねません。その人たちが気にするのは、内向きの自分の仲間だけ、同じ「世間」に属するメンバーだけです。「世間」人の眼中に、「社会」人は入っていません。世間人は、「自分たちの世間内」では、善良です。が、「社会」の観点からすると、世間人は通りを占領する迷惑な人たちです。

ですので、「家族」だけでなく、「企業」も間違いなく「世間的」です。

さて、〇〇さんの属する世間と、■■さんとの属する世間とは違っていたり、重なっていたり、同じだったりします。世間は「多種多様で、複数」あります。一方、社会は、日本国憲法で規定されていて「1つ」で、日本のどこに行っても同じ社会的-法的ルールが適応されます。私たちは、自分になじみのある世間で暮らしていて、なじみのあるその世間を「世界」あるいは「社会」、いや「宇宙」だ、と思い込んでいたりします。が、それは、世界でも、社会でも、宇宙でもなく、「一つの小さなローカル(local)」空間です。

世間学を創始した社会学者の阿部謹也氏は、江戸時代には、武士には武士の世間があり、商人には商人の世間があった、と述べています。ローカルな世間が複数あったのです。そして、世間と世間との間には「格差(ランク)」があり、異なる世間同士は、基本的に交わることが無かった、と伝えます。

現代にも、世間は多数あって、〇〇大学卒業生から成る〇〇会と、△△大学卒業生から成る△△会とは、別々の世間で、基本的に交わることはありません。

「スクール・カースト」から考えてみましょう。いま、学校には、小学校から大学院まで、「スクール・カースト」という世間がはびこっていて、いじめや差別の温床になっています。学校自体が世間ですが、たとえば、中学や高校では、「恋愛と性愛経験が豊富なモテ」生徒たちから成るグループが最上位カーストで、「勉強のできる」学生たちのグループがそれに続き、オタク学生のグループが、その下に来る、と言われています~その他にもグループが幾つかありますが、ここでは記しません~。学校内にある各グループは、間違いなく「世間」で、歴然とした格差があり、基本的に交わることはありません。交わるのは、上位カーストが、下位カーストを利用したり、いじめたりする場合だったりします。教師も親もこの現実を知らないか、知ろうとしません。学校は、平等で、公平で、民主主義的だ、と思い込もうとしています。学校は、建前上安全ですが、本音レベルではグループ間そしてグループ内での(巧妙な)争いや差別が絶えません。

世間は、格差のある「カースト」です。あなたは、世間に格差(カースト)が絡まっていたのをご存知ですか?世間人の多くは、より上位カーストに入って、そこに所属し続けることを、生涯にわたって望み、奮闘します。

カーストと一体の世間は、決してかつてのものではなく、SNSなどを通じて、今でも若い人の間で息づいています。より洗練され、巧妙化し、強力になっているとさえ、言えるかもしれません。若い人も、世間人です。大人は気づいていないかもしれませんが。

阿部氏によると、世間人には「主体性」がなく、世間の中で「自分が、出る杭(=個人)」にならないようにしなければならない、と考えています。「個(人)性」(=杭)など持っていたら、叩かれ、いじられ、いじめられ、嘲笑され、村八分にあいかねないからです。だから、私たちが、大学や大学院で臨床心理学の授業を受け持つと、初めは誰も発言しようとしません。出る杭になりたくないないからです。私たちの授業スタイルになじんでくると、徐々に、発言する学生が増えてきますが。

格差は、世間と世間との「間」にだけでなく、世間「内」にもあります。が、世間人は、自分の属する世間内でいじめられても、ディスられても、その世間から抜け出ようとしなかったりします。なぜなら、個人性 / 杭(くい) / 主体性 / 自分のない世間人にとって、自分の所属する世間が、自分が生きる上で不可欠な「空気(=酸素)」であり、自分を証明する「アイデンティティ(より所)」だからです。

ビジネス・ミーティング後のパーティで、日本人は、見知らぬ人に、自分は「■■会社」に属しています、と名刺を渡しながら話し始めます。これに対して、欧米人は、「私は、ジャックです。会計士です」といったりします。「■■会社」に属しています、と名刺を渡しながら自己紹介する欧米人は、まずいません。「■■会社」は、『世間』です。世間が「個(=自分)」のない世間人にとって、自分を証明するアイデンティティです。欧米人は、世間に生きていないので、「ジャック」や「会計士」と「個人」的属性を述べることで、自分のアイデンティティを、相手に表明しようとします。ちなみに、幾つになっても、自分の出身大学にこだわったり、気にしたり、自慢したりする人がいます。その人に「個人」的アイデンティはなく、あるいはあっても希薄なため、△△大学という「世間」に属することで、自己証明したり、そこをより所にしたり、優越性を示したり、したいからでしょう。

さて、職場での対人関係上の、または心理上の悩みは、「世間」という切り口がなければ、紐解けないケースがままあります。そこで次に、世間について考える上で、指標になるポイントを幾つか書きます。以下のようなことが話題になったり、ほのめかされたなら、その人は「世間」に関する問題の中にいるものと推測されます。

(1)義理人情や忠義

(2)上下(タテ)関係、先輩-後輩、家父長制

(3)裏ボスは「グレートマザー(太母)」~よくあるのは、過干渉で過保護な母的親分肌の上司と子分とから成る関係〜

(4)父性 / リーダーシップの不在

(5)暴力 ~パワハラや恫喝や脅し~

(6)酔っ払いと仕事中毒とを筆頭とする各種依存症

(7)健康な境界線の不在

(8)ホモ・ソーシャル ~日本企業にはびこる大きな問題です。またの機会に論じます〜

(9)共依存的持ちつもたれあう関係

(10)不倫

(11)隠れたズル、隠蔽体質

(12)いじめ、いじり、いびり、村八分

(13)贈与と返礼 ~たとえば、お中元やお歳暮、年賀はがきや暑中見舞い~

(14)冠婚葬祭

(15)腹芸

(16)「沈黙は金なり」

(17)一緒の時間を「物理的 / 身体的」に過ごすこと~たとえば、週末ゴルフ、飲み会、タバコを一緒に吸う、麻雀、残業につき合う ~日本人の関係は「世間」が土台であり、その世間は一緒の時間を「物理的 / 身体的」に共有することを要求するので、「オンライン」での「バーチャル的」会議や仕事の仕方は、今後、徐々に減っていくと考えます。若い世代でも、同じ世間に属する人は、同じ空間に物理的 / 身体的に居なければなりません。SNSだけではダメです。たとえば、女の子グループに居るには、休み時間に、おトイレに一緒に行かなければなりません。お弁当を一緒に食べなければなりません。こうした、どうでもいいことが、「世間」で生きていくには、とても大切です~

(18)呪術的年中行事 ~たとえば、新年には、社員一同で、最寄りの神社に初詣でに行くこと、「仏滅」は避けて「大安」を選ぶこと~

(19)根回し

(20)あうんの呼吸、忖度

(21)空気を読む

(22)甘えの許容

(23)本音と建て前

(24)恥をかくこと、面子(めんつ)を失うことへの恐れ。

どれも前近代的掟(おきて)です。「世間」でうまくやれない人は、(1)~(24)の前近代性、作法、芸風について、よく知らなかったり、わきまえていなかったり、(1)~(24)の複数で躓(つまず)いていたりします。

一方、「社会」は、人と人は平等で、職場での関係はあくまで「契約」に基づく(水臭い)もので、人権が尊ばれ、呪術や宗教的行事を必要としない、とするところです。阿部氏によると、そんな「社会」は「個人」から成るものです。また、「世間」で生きていくには無駄なこと、どうでもいいいことが多々あるが、日本でのサバイバルは、世間「抜き」には考えられない、と述べています。

ファミリービジネスのセラピーを行う時に、私たちは、クライエントが、

(1)家族やビジネス(企業、会社)という「世間」内に留まり、そこでの人間関係を考えたり、改善したりしたいのか?

(2)あるいは、「世間」という枠組みから出て、「社会」人としてまた「個人」として生きることを欲しているのか?

(3)世間と社会との間を臨機応変に行き来して、両方で、イキイキと生きたいのか?

(4)自分の悩みや問題が、「世間」でのことなのか、「社会」に関することなのか、わからずに混乱しているのか?

(5)世間と社会の「狭間(はざま)」で固まり、身動きできず苦悩しているのか?

といったことを丁寧にに見極め、クライエントとよく話し合うようにしています。クライエントの利益を、最大化するためです。

心理セラピーの技のほとんどは、欧米からの輸入ものであり、それは「社会」と「個人」に向けたものです。ですので、「世間」人には、フィットしないところがあります。その点に慎重になりながら、ファミリーセラピーを行うようにします。さもなければ、セラピーは、世間で生きることを望む人の「毒」になりかねません。

ファミリービジネスのビジネス面は、少なくとも建前上「社会の公器」を装えます。私たちは、世界がグローバル化した時代に、たとえそれが建前上であっても、企業は、「社会の公器」の側面をよりいっそう伸ばし、磨き、洗練させなければならない、と考えます。が、その一方で、ファミリーの側面は、阿部氏のいうように、未だに、前近代的で世間に生きています。日本のファミリービジネスの永続性には、21世紀にフィットしようと努める「ビジネス面」と、前近代的なままの「ファミリー面」との相矛盾に、バランスを図ることが欠かせません。この困難なバランス支援を行うのが「ファミリービジネス・ファミリーセラピー」であり、またファミリーセラピーを統合した、ファミリービジネス・アドバイザーやーファミリビジネス・コンサルタントの仕事だと、考えます。

(注、以上の文章は、世間学専門家の阿部謹也氏と佐藤直樹氏による一連の文献を参照させていただきました。感謝申し上げます)

この記事の内容は、日本ファミリービジネスアドバイザー協会に寄せた コラム「ファミリーへの支援」の一部を改変したものです。