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ファミリーにおける「幸せ(ウェルビーイング)」と「慈悲(コンパッション)」

チベット仏教のダライ・ラマは、「愛は人に幸せ(ウエルビーイング)になってほしいと思う心、『慈悲(コンパッション)』」は、人の苦しみがなくなればいいなと思う心」と述べています。

精神分析の開祖S.フロイトは、幸せにとって大切なものを「仕事」と「愛」といいました。その2つは、ファミリービジネスを支援するセラピストにとって大事にしたい言葉です。が、それは西洋人にはぴったりフィットしても、東洋人(日本人)には、どこか違います。何か足りない気がします。私たちは、『慈悲』が足りないのではないか、と考えます。

「愛や幸せ」と「慈悲」とを、補完的、と考えてはどうでしょうか?愛は「表」で「太陽」で「光」、一方慈悲は「裏」で「月」で「影」、ととらえてはどうでしょうか?

多くの人、たくさんのファミリーは、愛と慈悲、「光」と「影」の両方を必要としています(谷崎潤一郎著『陰影礼賛』参照)。いや、東洋では、愛や幸せよりも慈悲をより重視する場合も少なくありません。

私たちはファミリービジネス・サポートにおいて、「仕事」と、「愛」や「幸せ」(光)+「慈悲」(陰影)が大事だ、と考えています。

深層心理学は、民族文化やそこで暮らすファミリーや人の心の深みや奥行きを理解するために、何百年、数千年と永続してきた「神話」「童話」「昔話」を分析します。すると不思議なことが見えてきます。

西洋では「グリム童話」が大変有名ですが、それは「愛」の成就による「ハッピーエンド(幸福な終わり)」のお話しでいっぱいです。

一方、日本の昔話はそうではありません。たとえば「鶴の恩返し」では、最後に鶴が山に帰っていきます。「かぐや姫」も同じです。かぐや姫はお話しの終わりに、天へ戻っていきます。「浦島太郎」では、主人公は最後の場面で独りぼっちになって、開けた玉手箱の煙によって老いていきます。日本の昔話は「悲劇」でいっぱいです。が、なぜか、それが日本人の心に沁(し)みて「悲しみを慈しみ」ます。

悲劇は嫌だけれども、陰影(奥行きや深み)があって魅了されるところがある。ハッピーエンドは嬉しいけれど、光だけで、何か物足りなさを感じる。そうした気持ちを抱く人は、日本のファミリーセラピーのクライエントには少なくありません。悲しみを慈しむこと(=慈悲)を大事に思う人が多い。これを、本居信長は、「物の哀れ」から説明しました。

西洋の童話はハッピーエンドが多いのですが、その主人公たちの年齢は10代後半から20代前半です。「シンデレラ」にしても、「白雪姫」にしても、若い光り輝く2人が結婚して終わり、めでたしめでたしです。ファミリーは、結婚してからが本番ですが、王子様とお姫様が結婚後どうなったか、夫婦げんかしたのか、どちらかが不倫でもしたのか、子どもはどうなったのか、などは全く描かれていません。それは、子どもや青年向けの物語です。

一方、日本の昔話には、老人がよく登場します。「鶴の恩返し」と「かぐや姫」には老夫婦が登場しますし、「浦島太郎」では、主人公は最後に老人になります。

ちなみに、「悲(哀)しみ」の受容や慈しみは、老人心理のど真ん中の課題です。

筆者の幼少期に祖父母たちから「かわいそう、かわいそう」とよく言われました。今の若い人には理解できないかもしれませんが、その「かわいそう」は、「可<哀>想」と「可<愛>い」とから成る言葉でした。そこには、「悲哀」と「愛」とがありました。

日本人には、西洋的なダイレクトな愛でなく、「愛」と「悲哀」との混在する想い / 気持ちが、しっくりくるのではないでしょうか?ここで深層心理学者であり、文化庁長官を務めた故河合隼雄氏のクライエント(30歳代、男性)の夜見た夢を挙げます。

「1人の女性がいた。彼女の2人の姉は、ある強い男に強奪されたか、殺されたかした。そして、その男が彼女をも犯そうとやって来た。私と誰か(兄らしい)は、2人で彼女を守ろうとした。しかし、男が来た時、われわれはそいつが強すぎて戦っても無駄だとわかった。そこで私は(男性だが)、彼女の身代わりになろうと思った。私は身体を横たえながら、女であることのかなしみを感じた」(河合隼雄著『とりかへばや、男と女』新潮社参照)

典型的な西洋の昔話あるいは西洋人男性の夢なら、男性は「英雄」となって、怪物や悪い男を退治する、となります。それに対して、夢を見た男性は、対決ではなく「屈服」によって、女性を守ろうとしています。その際に、男性でありながら女性になって、「かなしみ(悲哀)」に共感しています。

河合氏は、この夢は親鸞聖人の夢を想起させる、と述べています。当時の親鸞は、自分は宗教者であるのに、女性への愛欲、性欲を断つことができず苦悩していました。が、その気持ちから逃げずに、六角堂に100日間の参籠をします。すると95日目に救世観音(くぜかんのん)が現れ、次のようにいいます。

「たとえあなた(親鸞)が女を犯すことがあっても、自分が女性となって犯されよう。かつ、あなたの臨終のときには、極楽に導こう」と。

救世観音は、もともとは男性像なのですが、ここでは女性になるというのです。

河合氏は、日本人の自我は、女性の自我だけでなく、男性の自我も「女性的」だといいます。

夢を見た男性の女性的自我は、「屈服」によって「守り」を行います。また、それは、悲哀やかなしみへの共感(=慈悲)を大事にします。

ここで大事なのは、「屈服」や「慈悲」が受け身でなく、盲目的でもなく、『意識的』『主体的』『選択的』に行われている点です。

ファミリービジネスの永続性には質のいい「守り」が欠かせません。ファミリービジネスの生き残りにとって『主体的屈服」は、時に「有り」でしょうか?それとも、そんな屈辱的なものは全く「無し」でしょうか?あなたは、どう思いますか?

私たちは「幸福(ウエルビーイング)」は男性的自我や若い世代に、「慈悲(コンパッション)」は女性的自我や老年世代にふさわしい、そして家族全体、全世代的にはその両方が大切だ、と考えます。

近年、ウエルビーイングやハピネス(幸せ)の大切さが強調されています。それと合わせて、コンパッション(慈悲)の深み、豊かさ、芳醇さに目を向けてみては、いかがでしょうか?良質なファミリー作りとその永続性に寄与すると思います。

この記事の内容は、日本ファミリービジネスアドバイザー協会に寄せた コラム「ファミリーへの支援」の一部を改変したものです。